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書くということについて

最近、自分が文章を書くことの意味を考えたりする。

連日ブログを更新していることもそれと関係している。

留学していた頃、忘れないようにとブログを書いていた。

もちろん当時は匿名で書いていた。匿名だから当然自由に書けた。

読み返すと恥ずかしくなることばかりだけど、SNSが今ほど発達していない当時はブログのリーダーがそこそこ多く、全く知らない人なのに定期的に私の拙いブログを読んでくれている人もいたりしたのが結構嬉しかったりした。

ところが、帰国したら全く書けなくなってしまった。

就職して書く余裕がなくなったのだと思っていたけど、それよりも海外という特別な空間にもういないということ、そして「学ぶ」立場から「教える」ことを一から始めるという大きな転換への大きな戸惑いがあったし、何より匿名性の少ない人間になったことにより以前と同じように物を書くことはできなくなってしまったのだと思う。

2年前に自分のホームページを初めて作ったものの、コンサートの広報やオルガンの紹介などは能弁にできても、かつてのようにのびのび書くということはやはり難しくなったと感じた。

ところが、最近は「書かなければならない」という気持ちになっている。

それは、状況は刻一刻と変化するので、書ける人が書き留める必要があるのでは、みたいな気持ちである。

例えば音楽学者の岡田暁生さんの著書「音楽の危機」が、コロナで全世界からコンサートが消えた時に書かれたものであるという点がとても重要であると思うから、とかそんなところである。

 

先日、吉田秀和さんの著書を手に取った。

非常に恥ずかしいことに、(それなりに理由はありつつも)私はこれまで吉田秀和さんの著書を読んだことがなかった。

勝手に先入観に毒されていた。

手に取ったのは古書で入手した「音楽紀行」で、吉田秀和さんが1953年から1954年頃にアメリカからヨーロッパへと音楽を巡って旅をしながらその内容を特派員的に綴ったものであるが、びっくりするほど面白い。

そして、内容に仰天してばかりだ。

例えばパリのくだりでは、「別宮君につれられて自宅で作曲科の生徒たちにレッスンをつけているミヨーや、サン・トリニテ教会でオルガンをひくメシアンの所を訪れたりもしたが・・・」とさらりと書いてあったり、

ケルンの滞在については章さえも設けられていないにもかかわらず、ドナウエッシンゲンからケルンに向かう汽車に「ジョン・ケージとディヴィッド・テュードア、それにスウェーデンの若い十二音作曲家ベングド・ハンブルースと一緒だった」と書いてあったりする。

デヴィッド・テュードアは当時前衛のピアノ作品を演奏するのに欠かせない人物で、この人がいたから世に出た作品が数多くある。ハンブルース(ドイツ語読みではハンブレウス)はその後オルガンのためにもいくつか重要な作品を書き、ハンブルースがいなければ1962年に初演されたセンセーショナルなリゲティのオルガン作品『ヴォルーミナ』は生まれなかったと思う。

 

「音楽紀行」が、音楽が世界で激しく揺れ動いていた1953〜1954年という時代を吉田さんの視点で捉えて綴られたものであるから面白いのかもしれないが、吉田さんはハンブルースがその後リゲティとどう繋がるかなどは知る由もないし、知っていても興味を持たれたかどうかもわからない。

でも吉田さんの文章を読んでいると音楽評論の意味や価値を改めて再認識させられるし、もし私が音楽評論を専門で行う人間であったら、こんなものすごい実録を前にして何を書いたら良いのか悩んでしまうのかもしれない。

 

でも、例えば昨日書いたMDR Rundfunkchorの指揮者フィリップ・アーマンについて、

私自身が留学時に書き留めていたブログを改めて読んでみると、その当時の記録として自分が思っていたより値打ちがあるものであるような気がしてくる。

それにしても、当時はアマチュアのコーラスで本番前とはいえ土日各8時間ずつ練習をしていて、アーマン自身はその後別の団体の指揮に行くという内容とか、改めて読むと彼らの体力はものすごい。

 

vocal plusでそんな練習を要求したらメンバーは誰もいなくなってしまうかもしれない。